「あっ……ごめん、エル」
88の白と黒の鍵盤。
その上で固まっているのは僕の両手。指が記憶していたはずの音が、完奏寸前で不意に飛んだのだ。
目の前の艶やかな譜面台には、眉間にしわを寄せた自分の顔が映る。
「ううん、今僕も間違えたから。でもアデル、この2週間でよく暗譜したね?」
弓を下ろしながら振り返ったエルは、そう言って笑った。
「ミシェルさんが『フランに披露するなら、暗譜くらいしないとね』なんて言うから」
「あはは、フランはそんな野暮なこと言わないのに」
「僕もそう思ったけど、確かに覚えられるならその方が良いなって。
でもやっぱりまだ最後の方がダメだー……」
「ラストは速いし、ピアノが目立つからねぇ。でもあと数小節だし、もう殆ど覚えられてるって!」
「うん……」
「そんな不安そうな顔しないで!それに明日は上手さよりも、楽しんでもらえたらそれで良いんだから。フラン、どんな反応するかな」
「緊張する……」
「大丈夫大丈夫!じゃあ、少し休憩したらもう一回合わせよ!」
「うん、分かった」
暗譜の為に下げたはずの楽譜を、再び譜面台に戻す。
1曲の為にこうして練習をするのはいつぶりだろう。
シュテルンツェルトにいた時も、僕は歌に比べるとピアノを弾く機会はとても少なかった。
多分、フランくんと弾いたイタリアンポルカが最後だったような気がする。
冒頭だけ一緒に弾いたあの日から数日後、“フラン先輩”の厳しい指導の元、最後まで1曲弾かされたのは良い思い出だ。
「あれももう2年前のことか……」
明日はそんなフランくんの誕生日。
折角なら彼の為に何か演奏したいと、エルにヴァイオリンをお願いしてから数か月。
快く引き受けてくれた彼は、週に1回こうして僕達の家に来てくれる。
「僕の家じゃ、フランにすぐバレちゃうからね」
そう言ってはくれたものの、彼らの高校はここから結構距離があるし、今は多忙な時期でもあるだろう。
そんな中わざわざ足を運んでくれるのだから、エルには感謝しなければならない。
そして、実家からピアノを運んでくれたミシェルさんや、彼のお父さんにも。
「色んな人にお世話になりすぎてる……」
だからこそ。
自分で言い出したこの演奏を、必ず成功させなくては。
「……よし。エル、準備出来たよ。もう一回お願いします」
「オッケー!じゃ、始めよっか」
「えーと……楽しんで弾くので、頑張って聴いてください」
その言葉を聞いて、少し間を開けてから僕とエルが顔を見合わせて笑う。
「ってことだから。フラン、頑張って聴いてね!」
「はいはい」
式典の時、ユリが殆ど同じ台詞を言っていたことを思い出す。
緊張のあまり自分の言葉の違和感に気付いていないアデルは、ガタガタと音を鳴らしながら椅子に座った。
それに比べ、エルの方は随分と落ち着いている。
大方、弾き慣れている曲なのだろう。
そして少しの静寂の後、2人が視線を合わせる。
(……暗譜したんだ)
エルはともかく、あいつまで暗譜なんて。
今日の為に相当練習をしたんじゃないか。そう思う。
(……あ)
最初の一音ですぐに分かった。
『ヴァイオリンソナタ イ長調 第4楽章』。
シュテルンツェルトにいた時、僕とエルが課題で弾いた曲。
それならエルが弾き慣れているのも納得だ。
(久々に聴いたな)
あの時と同じ曲だというのに、僕達のものとは全く違って聴こえる。
それが音楽の面白さだと感じると同時に、ほんの少し……本当に少しだけ、寂しさを覚えた。
(折角の演奏に何考えてるんだ、僕は)
自分の心の狭さに辟易とする。
同じ曲が奏者を代え幾度となく演奏され続けるのは、何もおかしなことじゃない。
それに、今日は僕の誕生日。
わざわざ呼んでくれた2人にこんな気持ちを抱くのは、それこそ失礼だ。
こんなに良い演奏なのだから、素直に受け取ろう。
(まぁ『僕の家』に招待されるってのは意味が分からないけど)
高校に上がって、エルも僕もお互いに忙しくなって。
シュテルンツェルトから実家に戻って以降、ゆっくり音楽を聴く時間も、エルと一緒に演奏する時間も殆どなかったように思う。
そんな中で突如僕の家で開かれた小さな演奏会。
その光景に、なんだかあの頃を思い出す。
『お兄ちゃん伴奏やって!! リリとエルくんでヴァイオリン弾くから!!』
決してアデルをリリーと重ねているわけじゃない。
それでも、最近のあいつの強引さは少し彼女に似ている。だから多分、これはアデルの思い付きだろう。
じゃなきゃあんな必死な顔して弾くこともないはずだ。
2人とも、きっと空いた時間を見つけては練習に励んでいたのだろう。
この曲を選んだのは、アデルが忙しいエルに気を遣って新しい曲を避けたからなのかもしれない。
(……それにしても凄い顔)
先程の「楽しんで弾く」はどこへ行ったのか。
思わずくすっと笑ってしまう。ふと目線をやると、エルもあいつを見て笑っている。
分かったよ。最後まで頑張って聴くから。だからお前も、もう少し楽しそうに弾いてよ。
あと少しで曲が終わる。
あの様子じゃアデルはきっとこの曲で限界だろうけど、面白いから少しだけ我儘に付き合ってもらおう。
今日は僕の誕生日なんだし。
そう、心の中で唱えた。
「あ、ありがとうございました……緊張した……」
「どうだった!?フラン!アデル凄いでしょ!!」
「アンコールで」
「え」
「アンコール」
「ヤバいよアデル!これ夜まで練習付き合わされるパターン!!」
……なんて。良い演奏だったよ。本当に。