#6 白百合が黒に染まる前
- 紅屋 翠
- 2023年9月12日
- 読了時間: 8分
更新日:2月16日
風邪を引いた。
いつぶりかは覚えていない。
昔から妙に体は丈夫だった。
流行り病に罹ることもなかったし、怪我をしても不思議と治りが早い方だった。
もしかしたら妹が病気なのは、僕が彼女の分まで丈夫に生まれてしまったからなのではとも思った。
なんて、そんな事は有り得ないんだけど。
……遠慮がちなヴァイオリンの音がする。
今何時だろう。
昨日から一日中寝ていたから、時間の感覚がない。
うっすら目を開け、窓の外を見る。
陽の高さからすると、正午を過ぎたくらいだろうか。
それなら、なんであいつがここにいるんだ。
「……まぁ、いいか」
体は怠いが、だからといって眠るのにも限界がある。
もうとっくに睡魔は去っていた。今の今までずっと眠っていたのだから当然だ。
数日休んでもう大分良くなっているが、式典を控えている手前、完治するまでは皆に顔を合わせる訳にもいかない。
だから今日も学校は欠席だった。
「…………」
とはいえやはり退屈だ。
何か本でも読もうかと、枕元に視線をやる。
そこにはまだ返していない本がいくつも積んであった。
オスカーや司書の先生に少しばかり申し訳なさを感じながら、一番上の本を取ろうと手を伸ばす。
が、届かない。
指先があと数センチ足りなかった。
こんなだからピアノを弾くのにも苦労するんだと心の中で毒吐きながら、少しだけ体を起こし無理矢理手を伸ばす。
「あっ」
やってしまった。
僅かに届いた指先で無理にこちらへ引き寄せようとした本は、無残にもその塔ごと大きな音を立てて崩れた。
「あー、何やってんのー?」
ヴァイオリンを片付けながら呆れ顔でこちらへ歩いてきた幼馴染に、少しだけバツの悪さを感じる。
「ごめん……」
「起きたんだ。全く、こんな時まで熱心だなぁ」
そっちこそ人が寝てるのに練習なんて、と言い返そうとしたけれど、ひとまずやめておいた。
「具合はどうなの?まだ少し熱ありそうだけど。勉強のし過ぎだよきっと」
「そんなわけ……」
「はいはい、その様子なら平気そうだね。で、どちらの本をご所望ですか?」
崩れた本を片付けながら、彼が尋ねてくる。
別に、何を読むかは決めていない。ただ一番上にあった本を取ろうとしただけだ。
「どれでも良い」
「えー?そうだなぁ……うーん……あれ、フランってばこんなの借りてたの?」
何だ。
別に妙な本を借りた記憶はないが、こいつの口振りに少しだけ動揺してしまう。
「ヘンゼルとグレーテル。
……あ!良いこと考えた、これ僕が読んであげようか」
そういえばそんなのも借りてたかと一瞬思ったが、よくよく思い返してみるとそんな覚えはない。
他の本と一緒に間違って持ってきてしまったのだろう。
またオスカーに謝ることが増えてしまった。
ヘンゼルとグレーテル。
貧しい兄と妹が2人で助け合い、お菓子の家の魔女を倒す話。
「……」
童話の中ですら、「兄」は頼りになる存在として描かれているのに。
そんな事を思いながら、ベッドの傍でパラパラと本をめくる姿に向かって訊ねた。
「ていうか、なんでいるの」
「え?だって今昼休みだし。
珍しく風邪を引いたフランくんの様子を見に、わざわざ帰って来たんですよー」
「別にもう平気だから……」
「そんなこと言ったってまだ本調子じゃないでしょ。現にこうなってるんだし。
あー、ほら、落とした拍子に折り目付いちゃったじゃん!またオスカーに怒られる!」
「それは……ごめん」
「あれ、やけに素直だな……」
この状態でどちらが優位かなんて、誰の目にも明らかだ。
無駄につっかかかるより、今は大人しくしていた方が良いだろう。
「別に。本当に悪いなと思っただけ」
「ふーん……そっか」
「…………」
妙な沈黙が流れる。
別に珍しいことでもないが、なんだか今日のエルの様子には違和感があった。
本を読んでもらうのも、まぁ偶には悪くはなかったけれど、恐らく初めから本人にその気はないだろう。
「エル」
「んー?」
「……まだ、昼休みじゃないでしょ」
「……えー?」
分かりやすい白々しい反応。
これはもう自白じゃないか。
「……あはは、バレちゃった」
改めて時刻を確認すると、予想通り今は12時を少し回ったくらい。昼休みまではまだ30分くらいある。
にも関わらず今ここにいるということは、何かしらの理由があってのことだろう。
理由なんて、ひとつしか思い当たらないけれど。
「……エル。手」
「へ?」
「手、出して」
「何?手繋いでくれるの?」
「いいから」
「…………うん」
そして差し出された、僕よりもずっと長い指。
少しだけ羨ましさを感じながら、彼の手に無理矢理ロケットペンダントを握らせた。
「……っ」
「何を考えてるか知らないけど……リリーも僕も、ここにいる。だから、大丈夫」
「…………」
エルは、何も言わない。
うんとか、分かってるとか言うと思ったのに。
「……僕、ダメだなぁ。フランには何にも隠せないや」
「そんなの今更でしょ」
「はは……そうだね……」
リリーがいなくなってから。
エルは偶にこういう日がある。
リリーは僕だけじゃなく、エルにとっても妹のような存在で。
そんな彼女は、エルのことが大好きで。
「大人になったらエルくんと結婚する」なんて恥ずかしげもなく言うから……だから、僕もきっとそうなるんだって思ってた。
「……今も、夢に見るんだ。リリーの誕生日を」
「うん」
「リリーはずっと嬉しそうに笑ってて……フランも楽しそうで」
「うん」
「このまま目が覚めなければ良いのにって。ずっと3人でいられたら良いのに。これが夢だなんて、気付きたくないのに」
「……うん」
「毎朝目が覚める度にどうしてって……思って……でも……っ……」
「うん」
「本物のフランはここにいるから……っ」
「うん。いるよ」
ベッドの端で突っ伏す彼の頭に、そっと手を置く。
素直に泣いて良いのに。リリーが死んだ時も、エルは泣かなかった。
もしかしたら、僕の知らないところで泣いていたのかもしれないけど……。
「リリーがいない現実は死にたくなるくらい苦しいのに、フランがいる現実も、どうしようもなく嬉しくて……リリーに……申し訳なくて……っ」
それは、辛いだろう。苦しいだろう。僕も同じだ。
でも今、僕はその辛さを打ち明けてくれることに助けられている。
リリーは、僕らに全てを隠し通して一人逝ってしまったから。
それなら、気が済むまで……例え気が済まなくても、何度でも心の内を吐き出して欲しいと思う。
「フランの方が辛いのに……僕ばっかりこんなで……」
「そんなことない。どっちの方が、なんてない」
「…………」
本当にそうだろうか。
そんなことを言いながら、本当はエルの方がずっとずっと苦しい思いをしているんじゃないか。
だって、僕はこんな風に感情を吐露したことがないから。
僕は……薄情な兄なのか。
「フランは……どこにも行かないで。僕を置いていかないで」
苦しそうに声を絞り出す彼に、置いていくわけないでしょ、と無責任に肯定するのは簡単だ。
それは僕じゃなくても出来る。
今、彼の望む言葉を掛けても、エルが本当の意味で救われることはないと分かる。
分かっているというのに、
「行かないよ。どうせ行くなら、エルも連れてく」
「その代わり、エルがどこかに行くって言うなら、僕も連れてって。
まぁ嫌がっても勝手についていくけどさ」
そんなありきたりの慰めしか、僕には出来なかった。
リリーは、こんな僕を許してくれるだろうか。
「……っはは。何それ。でも……うん。ありがと、フラン」
ああ、少し頭がくらくらしてきた。
熱が上がっているのかもしれない。
でもまだ、エルは何かを言い淀んでいる。そう感じた。
「……あのね、フラン」
「何……?」
「フランは薄情なんかじゃないよ」
「え……」
「……ごめんね、こんな時に無理させて。氷持ってくる」
そうして彼は、僕の額に当てた手を放し、赤くなった目元を隠すように身を翻して部屋を出て行った。
「…………」
不意に訪れた静寂と、熱で脈を打つ体。
そして分かったことがひとつ。
エルに隠し事が出来ないのは、きっと僕も同じだってこと。
そして、僕が変わらず“薄情”でいられるのは、エルがいるから。
あの時復讐などせずにいられたのも、彼のお陰だ。
いつだってエルの存在が、僕を「その道」から引き戻してくれる。
リリーが復讐を望んでいたのなら、2人で堕ちるのも悪くはなかったかもしれないけれど。
でも、僕らは知っている。
あの子がそんなことを望むはずがないと。
「だよね、リリー」
目を閉じ、親愛なる妹に祈る。
僕とエリアスが、これからも強く生きていけるように。
式典は1週間後。今は一刻も早く体を治さなければ。
伴奏がいないことで、皆には迷惑をかけていることだろう。
今なら、あのソリストとも少しは話が出来る気がする。
リリーと同じ色をした彼と、何を話そうか。
そんなことを考えているうちに、再び瞼が重くなる。
窓から吹き込んだ風に、「ただいま」と小さなヴァイオリンケースの音が重なったような気がした。