#5 スミレ色の日々
- 紅屋 翠
- 2023年9月5日
- 読了時間: 5分
更新日:2月15日
王都から少し外れた場所にある、静かな住宅街。
その中でも一際目立つ大きな家。
あれが今の僕の帰る場所だなんて、少し前だったら考えられなかっただろう。
「ここに1人で住んでたミシェルさんもミシェルさんだよね……」
引っ越してきてから今日で大体3か月。
ここは十数年前までミシェルさん一家が住んでいた家で、今の新しい家に移り住んでからもそのまま残してあったらしい。
以前聞いた「無理矢理シュテルンツェルトに転入させてもらった」という話がその時だろう。
高2の時には既にここで一人暮らしをしていたというのだから、彼の自立心には心底驚かされる。
シュテルンツェルトでの一件以降、僕はもれなく住む家を失ったわけで。
どう見ても1人で住むには広すぎるこの家に、ミシェルさんは「アデルくんの1人や2人増えたくらいじゃ何も変わらないから」と僕を置いてくれた。「掃除はよろしく」との一言を付け加えて。
「どちらかというとそれが目的だろうな……」
基本、家事など身の回りのことは全て僕の役割だ。
定期的にベルが来てくれるし、ミシェルさんだって流石に何もしないわけではないから、あまり大変だとは思わない。
それに、これくらいの家事なら実家でも毎日やっていた。寧ろシュテルンツェルトに来てからは何もさせてもらえずに手持ち無沙汰だったくらいだ。
ハイゼンベルク、シュテルンツェルト、ミシェルさんの家。
たった数年の間にこうも生活環境が変わるとは。今頃、母さんはどんな顔をしているだろうか。
「困っちゃうよね、本当」
元はピアスだった胸元の赤い石に語りかける。
クラウスが加工してくれたこのネックレスは、今も大事な母の形見だ。
「……よし、じゃあ何から植えようかな。母さんは何が良いと思う?」
こんなにも立派な家だが、引越し当初は外壁には蔦が覆い、庭も荒れ放題だった。
あまりの荒れ具合に空き家だと思われたのか、ミシェルさんは一度空き巣と鉢合わせたことがあるらしい。
何事もなくて良かったが、それを聞いては尚更このまま放置など出来なかった。
「やっぱ業者呼んだ方が良い?」と聞かれたこともあるが、居候させてもらう以上それくらいは自分で、と断った。
3か月間毎日少しずつの作業だったが、今ではなんとか人が住む家らしくなっている。
……その間にまた雑草が増えた気がしないでもないけど。
庭は自由にして良いと言われているから、折角なら色々な植物を育てたい。
そう思って、たった今花屋から帰ってきたところだ。
「やっぱりまずはスミレかな。サクラかアーモンドもあれば良かったんだけどねー……」
ぶつぶつと独り言を溢しながら、庭作業の準備をする。
今日は天気が良い。長時間外にいるのは危険だろう。ルカの帰国直前に倒れるわけにはいかない。
「向こうが出身のルカにとっては“出国”になるのかな……どっちなんだろう」
どちらにしても、久しぶりに彼と会えるのは楽しみだ。
日の陰りに僅かな胸騒ぎを覚えながら、小さく咲いたスミレの苗に手を伸ばした。
家の中から自分以外の音が聞こえるのは、いつぶりのことか。
普段なら他人が家にいるという事実だけで気分が悪くなっただろう。しかし、相手があの子だというだけでそんな気にもならないのだから、俺という人間も随分と変わったらしい。
「絆されてんのかね……」
彼をこの家に置いたのは、「彼の友人」に頼まれたから。
……なんていうのは自分への言い訳で、最終的には俺の意志だ。
あの呪われた学園で彼と初めて出会った時、一目で「ユリの代わり」だと分かった。
そして、吐き気がした。
この学園は、未だユリ・アンデルに囚われている。
あの手紙を読んだ時点で分かっていたはずだった。でも、認めたくなかった。
あれは幼い俺が創り上げた妄想だったと、そう思いたかったのだ。
学長を継ぐ為なんかじゃない。それを確かめる為に俺はシュテルンツェルトへ戻って来たというのに。
「うわぁっ!?」
あまりの情けない声で我に返る。窓を開けて庭を覗くと、彼が尻もちをつき一点を凝視していた。
今日はいやに天気が良い。外で無理をしていなければ良いが。
「どうしたー?」
「あっ、ミシェルさん起きてたんですね……」
「今の声で起こされたの」
「えっ、それはごめ――」
「嘘」
む、と顔を顰める。最近はすっかり感情を表に出すようになったな、と少し感心する。
「……今さっき買ってきた花に芋虫がついてて」
「買ってきた花じゃなくても、虫ならそこら中にいると思うけど。特に庭なんか」
「分かってます、分かってるんですけど!どうしてもダメなんです!特に芋虫と蝶が!」
「そんなんでよくガーデニングなんかやろうと思ったね」
「まぁ……母さんの趣味でもあるので……」
「それなら仕方ないか。あぁ、それってスミレだよね」
「はい!」
「ふーん…………あ、そうだ」
「何ですか?」
「虫食ってるやつで良いから、一本くれない?」
「え、一本だけですか?別に良いですけど……はいどうぞ」
「ん、ありがと」
「それじゃあ花瓶に入れても意味ないですよ?」
「うん。栞にする」
「あぁ、押し花!ミシェルさんでもそんな可愛らしいことするんですね」
「見直した?」
「はい、とっても。僕も作ろうかな……」
「…………」
毎日こんな会話ばかりしていれば、嫌でも毒が抜けるというものだ。
毎食必ず用意される食事、知らぬ間に片付いている書類や洗い物。
彼がここまでの自活力の持ち主であることは、一緒に暮らすまで知る由もなかった。
これまでとまるで正反対の日々に、俺の心身はすっかり人間性を取り戻している。
諦めと絶望で人が変わったあの時とは訳が違うのだ。
そう。だからこそ。
俺は恐怖を感じている。彼のせいで、“俺にとって不要だったはずの物”を手に入れてしまったから。
「本当に、このままじゃ良くないね……」
指先で紫の花弁に触れながら、己を憂う。
そうして閉じた本のくぐもった音は、心に重く圧し掛かるようで、酷く不快だった。