#2 120kmの独白
- 紅屋 翠
- 2022年3月29日
- 読了時間: 6分
更新日:2月16日
ユリ・アンデル。
その少年を、僕は知らない。
皆が口にする「ユリ・アンデル」がどんなに凄い人であろうと、どんなに愛されていようと、僕は何も知らないのだ。
それに、僕にとってはアデルの方が凄いから。
明日の記念式典で、皆がそれを目の当たりにすればいいと思う。
「……なんて言ったら、ユリさんへの不敬罪になるのかな?はは」
「勝手に期待されて、勝手に学園の全てを担わされて……辛かっただろうに」
アデルがここを去ると決まった時、僕は少なからず「ユリ・アンデル」とシュテルンツェルトを恨んだ。
何故そんな身勝手なことが出来るのだろう。
彼は今、ようやくここで静かな日々を送ることが出来ているのに。
けれど。
「ほら、僕の言った通りじゃないか。君はいつかもっと大きなところへ行くって」
「……なんて顔をしてるんだ。折角アデルの実力が認められたんだから、自信を持たなきゃ」
「お母さんもきっと喜んでる」
最終的にそんな無責任なことを言って送り出したのは、僕だ。
きっと僕は、一番言ってはいけないことを言ってしまった。
彼が抱いていたかもしれない「ここに居たい」という気持ちを、僕は殺した。
そして、僕が抱いていた「ここに居てほしい」という気持ちも。
僕はアデルの親じゃない。
兄弟でもなければ恋人でもない。
多分、彼にとってはただの友達だろう。
友達の分際で、人の人生を左右することなど許されない。
それなのに、シュテルンツェルトへ行くことがアデルにとっての最善だと決めつけた。
「名の知れた栄誉ある場所」が必ずしも幸せでないことは、自分が一番知っていたのに。
サフィルヴァーグのグリーンハルシュ家。 恐らく、当時あの国でその名を知らない人は殆どいなかっただろう。 このくだらない階級社会の、公爵貴族。それが僕の「元」家だ。
外務大臣の父とピアニストだった母。 何とも異質な組み合わせだが、ともかくそんな2人の間に運悪く「長男」として生まれてしまった僕は、跡継ぎという期待を一身に受けて育った。 両親が近親婚でなかったことは唯一の救いだったのかもしれない。
貴族の長男である以上、自由に過ごせる時間はそう多くなかった。 一日中とにかく勉強、勉強、勉強。
中でも外交やそれに伴う外国語は徹底的に叩き込まれた。
一族の職業柄仕方のないことだと分かっていても、未知の言語を扱うのは容易ではない。
「勉強も見知らぬ人と関わるのも嫌いなんだよなぁ……」
偶に連れ出される社交会では、皆一様に跡継ぎがどうだの政治がどうだの結婚がどうだの、そればかり。
そんな話、子供が聞いて楽しいわけがない。それでも両親や一族の為、優秀な跡継ぎを装う。
奥歯を嚙みしめ口角を上げながら、心の中で「貴族なんかくそくらえ」と毒づく。
実際に口に出したら、どうなっていたんだろうか。
8歳を過ぎてからは毎日のように縁談が舞い込んだ。
けれど、悠長に恋愛感情を育む時間などない。父が急死し、僕が正式に当主となってしまったから。
仮にそうでなくても、婚姻の一番の目的は一族の血を繋ぐ事。元から感情は二の次だ。
何人もの見知らぬ少女達の「美しい絵」を見せられても、まるで興味は湧かない。
だって、例にもれず「全員が等しく美しい」から。
そんな度重なる婚姻話が余りにも嫌で、自身を「女」だとか「次男」だと偽ったこともある。 流石に大人はそこまで馬鹿じゃなかったけど。
「子供相手なら余裕だったんだけどなぁ」
……そんなことを今、小さな孤児院の天井を眺めながら思い出す。
目の疲れる当時の豪華絢爛な家とは雲泥の差だ。だけど、僕にはこれくらいが丁度良い。
もう、あの家に戻ることはない。
何故なら、そんなグリーンハルシュ家はほんの4年前に爵位を剥奪され、没落したから。
後継者とはいえ、まだ幼い僕に代わり重役を執り仕切っていた叔父が、何やら大そうなことをやらかしたらしい。
大方、手を出してはいけない人に近づいてしまったんだろう。何しろこれでも公爵家だ。嵌められた可能性もないとは言えない。
だからまぁ、グリーンハルシュという名は今でも「ある意味」有名かもしれない。
それまでの僕の努力は一瞬で水の泡と化したが、叔父を責める気にはなれなかった。
グリーンハルシュの歴史の中で、全ての責任を彼一人に押し付けるのは違うと思ったし、僕にとって叔父は別に悪い人ではなかった。
なけなしのお金で僕を隣国の孤児院に送ったのだって、叔父の最後の愛情だったのかもしれない。
そんな忌むべき姓を叔父は捨てろと言ったけれど、それさえもなくしてしまったら、これまで生きてきた証ごと失う気がして、やめた。
以来、一族は瞬く間に離散、中には下位貴族の使用人になった者、手持ちの資産でどうにか持ち直した者もいるらしいが、詳しいことはよく分からない。
「薄情」という言葉がぴったり似合うのは、僕くらいのもんだろう。
一度に沢山の物を失ったが、悲しみよりも開放感を感じていたくらいには、僕は元気だった。
ふと、ノックの音がする。あぁ、金の亡者はここにもいた。
彼が僕に対して過剰に干渉してこないのは、僕の出自を知っているからだろう。
没落したとはいえ、一応は弁えがあるんだなぁと謎の感心をしてしまう。
「ルカ。まだ起きているか?シュテルンツェルトから客人だ」
「シュテルンツェルトから?はい……今行きます」
こんな遅くに一体誰だろう。
まさか式典前日になってアデルが逃げ帰ってきたわけじゃあるまいし。
「……手紙も返ってこないのにね」
淡い期待と不安を抱きながら窓から玄関を見下ろすと、亜麻色の長髪を乱した女性が立っている。
服装からして、使用人だろう。
そんなに急いで、一体何事だというのか。
「まさかアデルに何か――」
そう考えるのも束の間、一目散に部屋を飛び出した。