「僕と、結婚してください」
公演は今日も大盛況のうちに幕を閉じた。
だけれど、今日だけはその余韻に浸っている暇はない。
「はぁっ、はぁっ……」
舞台裏にヒールの音が響く。
急がなくては。
先生方とお客様に挨拶をし、楽屋に戻ってドレスを脱ぐ。化粧をし直す時間はないけれど、最低限の身嗜みは整えた。
彼が、待っている。
時刻は午後9時を過ぎた頃。
劇場の裏口。関係者だけが出入りを許された場所。
そこに、彼はいた。
「ウィル!」
「ははっ、ベアト。そんなに慌ててどこへ行くんだい?」
彼は優しく肩を抱いて言う。
「もう……!貴方が呼んだんでしょう?」
見上げると、ウィルは困ったように笑った。
「おっと、そうだった。……よし、役者は揃った。それじゃ、行こう!」
彼に手を引かれ、劇場から夜の街へ出る。
出待ちの人々の間を縫って、走る。
いつもは時間をずらして1人ずつ出てくる小さな扉から、今日は手を繋いだ2人が出てくるのだ。
明日の記事は一面私達かもしれない。
けれど、それでも良いと思えてしまうほどに私の心は踊っていた。
見慣れた街並みが、いつもよりも輝いて映る。
自然と口角が上がった。
年甲斐もなく、さながら少女のようであっただろうと思う。
「ここまで来れば……大丈夫だろう」
少し息を切らしながら、ウィルが言う。
「ふふっ……」
「あ、笑ったな?」
「だって。なんだか可笑しくて」
「君と違って、僕は体力がないんだ」
「ええ、知ってるわ」
そんな事を話しながら、今度は横に並んで歩く。
彼が隣にいると、安心する。酷く幸せだ。
嬉しそうに公演の感想を語る彼を横目に、私はやはり、笑みを抑えきれない。
今日は私の生誕記念コンサートだった。
「……ベアト。期待外れだったらごめん」
そう言って案内されたのは、高級料理店――ではなく、彼の家。
まぁ、その家自体が豪邸なのだけれど。
「ここは貴方のお家ね……?」
それは、道中で何となく気が付いていた。
「そう。でも今日は誰もいない。皆外させた。
君が落ち着かないだろうし、今日はどうしても……2人になりたくて」
上流階級の彼の家には沢山の使用人がいる。初めて訪れた時は、あまりの絢爛さに気後れしてしまった程だ。
けれど、決してそれが嫌だったわけではない。
ウィルからは、裕福層特有の卑しさのようなものが一切感じられないから。
上品で、紳士的で、それでいて庶民の心も理解している。そんな彼が大好きだったから。
「がっかりした?」
「なぜ?」
「だって、君の誕生日に僕の手料理なんて」
「何を言うの、ウィル。私、今とっても幸せよ」
名店の高級料理も勿論素敵だったでしょう。
けれど、私は何よりも彼のことが好きなのだ。
そんな彼が用意してくれたこの晩餐には、どんな名店でも敵わない。
そう告げると、ウィルは少し照れたように、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、改めて。ベアト、誕生日おめでとう!」
揺れるバーガンディーに澄んだグラスの音が響く。
「ありがとう、ウィル。今年もこうして貴方に祝ってもらえるなんて……」
「何を言うんだベアト。来年も、その先だってずっと――」
「ふふ、私と同じこと言った」
「あ」
誰もいない大きな屋敷に、二人の笑い声だけがこだまする。
来年も、その先だってずっと。
そうであったなら、どんなに幸せだろう。
彼の言葉を、本気にしてしまう。本当に、良いのだろうか。
自分だけが浮かれている……そんな事を考えた私に気が付いたのか、ウィルは突然席を立って私の元に近づいた。
そして椅子の横に膝をつくと、
「僕と、結婚してください」
幸せの、その先の言葉は一体何だろう。
どうして神様は、「最上級の幸せ」を表す言葉を用意しなかったのかしら?
私は泣いていた。
「ウィル……これ……」
銀色に煌めく美しい指輪。中央のダイヤは、涙で滲んでいる。
「僕の気持ち。正確には……二度目だけど」
以前二人で出掛けた時、彼は突然思い付きのように「僕達結婚しよう!」と言い出した。
勿論それも彼らしくて嬉しかったが、その時の言葉とはまるで違う真剣な表情に、私は彼の覚悟を感じた。
悩むことも、迷うこともない。
私にはもうとっくに、ウィルしかいないから。
「勿論。私も貴方が大好きです」
喜びのあまり咽せて咳き込んだのだと、そんな愚かな勘違いをしなければ。
彼は今も――