死のうと思った。
何度も。
母さんが死んだ。僕のせいで。
僕がアルビノだったから。
僕が弱かったから。
切られた頬の痛みは、不思議と感じなかった。
いっそ抵抗せずにその身を差し出していれば、母さんは死ななかったかもしれない。
それでも「かもしれない」と思ってしまうのは、僕が母さんの愛情を知っているからだ。
何をしたって、母さんはきっと僕の為に死んだだろう。
母さんとお別れをした。
顔だけはどうしても見れなかった。
僕だけの、静かな葬式だった。
眠れない日々が続いた。
大人は皆、「君のせいじゃない」と言った。
君は悪くない、全て父親が悪いのだと。
何も聞きたくなかった。
何も聞きたくなくて、誰にも会いたくなくて、深夜、近所の公園へ行った。
星が綺麗だった。と、思う。
僕の髪は星の色、母さんは夜空の色。
そんな慰めを思い出しても、もう心は癒えない。
不意に男の人がやって来て、声を掛けられた。
返事をする気力もなく無視をしたけれど、しつこく話しかけてくるので少しだけ答えた。
あまり刺激をするのも良くないと思ったから。
何を聞かれたかは覚えていない。多分、一人かとか、家出か、とか。
気付くと僕の隣に座っていて、背後にも人の気配を感じた。
帰ろうと急いで立ち上がると、手首を掴まれた。
と同時に、忘れもしない冷たい刃物の感触。
さっきまでの優しげな声色はなく、そこにあったのは父親と同じ悪意に満ちた顔。
2人の男に引きずられるようにして、あっという間に公園の茂みに連れ込まれた。
彼らの狙いは、きっとアルビノだろう。本当に迂闊だったと思う。
いつもならこんな不用心なことはしない。いつもなら。いつも、だったら。母さんがいたら。
僕にはもう、助けてくれる人はいない。色々と思い返すうちに、涙が溢れてきた。
殺してほしいと泣いた。
どうせ売られるなら、髪を切られ、体をバラバラにされるなら、もう一思いに殺してほしかった。
だけど、その時の僕は知らなかった。
「売られる」ということの本当の意味も、彼らが今、何をしようとしているのかも。
最後に覚えているのは、肌に伝う気持ちの悪い感触と――けたたましい銃声。
僕はそのまま意識を失った。
僕を襲った男は、僕の目の前で死んだ。
巡回中の新人警官が勢い余って発砲した……とか。
もう一人は逃げたらしいけど、すぐ捕まるだろうとのことだった。
二度も助けられた命を簡単に捨てるなんて。
きっと、皆はそう言うだろう。
それでも良い。もう、良いのだ。
早く母さんに謝りに行かないと。
僕が生まれたから母さんは死んだ。
僕が生まれたから父さんは家から出て行った。
僕がいなければ、僕がアルビノじゃなければ、今頃あの家は幸せに満ちていただろう。
なぜ、僕は生まれてしまったんだろう。
母さんが本当に望んでいたのは、僕ではないのではないか。
なんで僕なんかを庇ったんだろう。庇う価値もないこんな僕を。
天井を見上げ、吊るしたロープを見つめる。
3人の男達の最低な瞳を思い出す。
欲に溺れた人間の顔は、あんなにも醜いのか。
こんな事なら、ちゃんと母さんの顔を見ておけば良かった。
最期の表情を知るのが怖かったから。死を認めたくなかったから。
結局そこでも僕は逃げたのだ。
ごめんなさい、母さん。
今行くから。もう逃げないから。
母さんは僕を恨んでいるかもしれないけど、僕は今でも母さんが好きなんだ。
辛い。
「…………」
「……死ぬの?」
「…………」
「ドア、開いてるよ。死ぬならちゃんと閉めておかないと」
「…………」
「閉めようか?やり直す?」
「…………良い」
「そっか」
「…………」
「僕さ。この光景見るの2回目」
「…………」
「母親がね。君と同じ死に方をした」
「…………」
「その時思ったんだよね。凄いなって」
「…………」
「君、アデルでしょ?先生にはまだ紹介されてないけど、知ってる」
「……邪魔しないで」
「邪魔?勿論しないさ。すぐに出ていくよ」
「…………」
目の前の少年が何を考えているか、全く分からない。
人の自殺を目の前にして、動じもせず、止めもせず。
一体何のつもりなのか。
まぁ、もはやどうでもいいのだけど。
「でもほら、最期の会話って大事だと思うんだよね。
最期に嫌な事思い出すより、変な奴いたな〜って方がまだマシじゃない?」
「…………」
「ね?」
「…………」
「あと首吊りってさ、僕も一回試したことあるんだけど。
あ、試したと言っても自分で首を絞めてみただけね。怖いし」
突然何を言い出すんだ、この人は。
「ロープでこう、ぎゅっと。呼吸が苦しくなるよりも先に、頭の方に血が集まっていくのを感じて。
その後にやっと喉元の苦しさが来た。ある程度は空気が残って耐えられるのかもね」
真面目に淡々と首絞めの様子を話す彼に、少しだけ気圧される。
「でもさ、結局怖くてやめちゃったよ!あははっ」
なんだ、やめたのか。ってそりゃそうか。
今目の前にいるんだし。
「だから、君は凄いね」
「……え?」
「僕は臆病だから、死ぬなんて怖くて出来ない。 だから君は凄いね」
何を、言っているのか。自死を選ぶのが凄い?
そんなはずないだろう。
「君は凄い。勇気がある。その勇気を称えるよ。僕には到底真似出来ない。
僕は母親の後追いなんか、出来なかったから」
死ぬのは、怖いことなのだろうか。
もしかしたら、とてつもなく恐ろしい――
「それじゃ、僕は行くね。
出来れば……“落ちる”前には戻ってきてあげたいけど。首吊り遺体って酷いから」
この気持ちは、何だろう。
「……じゃあね、アデル。僕は――」
待って。
「僕はルカ。僕は、君が死んだら悲しいよ」
「……ル。……アデル?」
「あ、ごめん」
「そんなにこのアップルパイ美味しかった?放心するくらい?」
「え、いや違う!あっ違わないけど、」
「はは、分かってるよ。で、どうしたの?」
「……昔のことを、思い出してた」
「昔かー……おじいちゃんみたいなこと言うね」
「え」
「でもまぁ、昔って呼べるくらいになったなら、それは良かったよ」
「……うん。あのさ、ルカ」
「何?」
「ありがとう」
「アデルの誕生日だしね」
「そうじゃなくて、今までのこと全部」
「やめてよ、そんなに感謝されるようなことしてないって」
「してる」
「そう?」
「そう」
「分かった。じゃあそういうことにしとく。遠慮なくいっぱい感謝して」
「ふふ」
死ぬのは怖い。
それは、まだこの人生に絶望していない証。自分でも気付けない、生きる希望があるということ。
勿論皆が同じとは限らない。少なくとも、僕はそうだったというだけのこと。
あれほど何とも思っていなかった死が、あの瞬間、少しずつ恐怖に変わってしまった。
「……生まれた意味とか、生きる意味とかってさ」
「うん」
「別に後付けでも良いんだよ。上書きだってして良いし」
「上書き……」
「僕はそう思ってあの家で生きてた。家督なんか継ぎたくなかったからね」
“貴族の長男”として生まれてきたルカは、昔からその肩書きを嫌悪している。
数えきれないくらい『グリーンハルシュ家の為』と言われてきたことが想像出来る。
「必ずしも希望に満ち溢れた人生である必要はないと思うよ。そもそもそんなの無理だし」
彼の言う通りかもしれない。
「そんなわけで、“今のアデル”はこの超絶美味しいアップルパイを僕と一緒に食べる為に生まれたということで」
「ははっ、何それ」
「はい、改めてお誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう。ルカ」
死のうと思った。何度も。
「あ、アデルじゃなくて僕の方にフェーヴ入ってた」
だけど、今はそれが怖い。
勿論、今も辛くなることはあるけど……でも、死ぬほどじゃない。
消えてしまいたくなることもあるけど、でも、死ぬほどじゃない。
思わず死を選びそうになっても、顔が過る人がいる。
ルカ。僕の親友。
彼がいるのなら、きっと大丈夫。
「フェーヴ入りのアップルパイ……」
そして、母さん。
ずっと思い出せなかった母さんの笑顔が、今、ようやく蘇った。